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【言葉遊び】議論には愛を込めてほしい

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議論好きは嫌われるというけど、それに関しては、僕も当たっているなと感じる。

職場にいる議論好きな奴というのは、会議ですでに決まった案件に対して、必ず何か反論する。

これがうざい。もう、飛び切りにうざったいのだ。

しかも、うざい反論の行方、その着地点はけっこうあやふやなものだったりする。

一体、何が言いたいのか。

だから結局、どうすればいいというのか。

具体的な改善案や、「こうすればいい」という自分の意見を述べるでもなく、ただ決定したことに対して、批判する。

それはもう、批判したいだけなのではないか、と僕などは思うわけである。

議論好きは馬鹿者か?

議論好きな奴、というのはどういう奴のことを言うか?

それを説明するのにうってつけの具体例が存在する。

そう、それはまさしく、僕のような人間のことである。

議論好きなうざい奴、それは僕。正直言って、どんぴしゃだ。

僕のような議論好きでうっとうしい、文句垂れのボヤッキーは、何かと自分の考えを喋りたがる。

やれその計画では絶対に中途半端に頓挫するだの、もっと本質を話し合った方がいいだのと、すでに決まっている事案について、偉そ気に、したり顔で、感情豊かに熱く語るのである。

意外と情熱的で、その本心は、確かに現場をより良くしたいという想いがあってのことで、いわば確信犯的なところがあるから、これがまたやっかいだ。

自分が正しいと信じる者の考え方や行動、価値観を変えることは難しい。

むしろ、ほとんど不可能と言っても過言ではないのである。

確信犯

本来の意味での確信犯。

そう、確信犯の本当の意味とは、「悪いことと知っていてわざとやる」行為ではなく、「正しいと心から信じた上で実行する」……そのような行為を、確信犯というのである。

すなわち、僕のような議論好きでより良い未来を切り拓きたいというイノベーター気質を持った熱血漢というのは、シンプルに確信犯なのである。

このような確信犯というのは、そもそも自分の言動に対して迷いを持たない故に、驚異的な思い込みによって、他者からしてドン引く程のハイテンションでもって、ことを荒立てていく。

風のないところに大波を巻き起こす、突然やってきた嵐のような存在。それが議論好きなはた迷惑男の正体というわけだ。

嵐。

そういうと何かカッコ良さ気だが、単に周囲を振り回すだけのお騒がせ社員。

いわばMONSTER社員と言ってしまった方が、より的確な表現であるかもしれない。

しかしながら僕は言いたい。

あくまでも、本心から、現場を改善したいという想いがあってこその、暴走なのである。

そう、確かにただの暴走かもしれないが、そこには他にはない愛情がある。

5人組の嵐も言っていた。「見かけじゃなくて、心を抱いて」。つまりは単純に僕の本心に気づいてよ皆、と言いたくてこのようなとりとめもない文章を書き記した次第なのである。

本心

もっと良くなる方法を見つけたい。

それが僕の本心であり、確信犯であろうとなかろうと、真意というものである。

ものごとの真意を伝えることは、長い話し合いの中でも難しい。

どれだけ説明しても、言葉を尽くしたとしても、自分が本当に言いたいことは、相手には伝わらないものだ。

熱意を持って、愛と平和の感情を言葉に乗せて語りつくしたとしても、それが伝わることはない。

なぜなら、相手は僕の話を聞いてはいないからだ。

殊更に根気強く、かつ分かりやすく説明をしたところで、話を聞いていないのだから、伝わるはずもないのである。

なぜ、聞いてもらえないのか。

それは、話を聞いているその相手もまた、自分の中に確固たる信念を抱いているからに他ならない。

すべて信念によるフィルターを通して、外界からの言葉を受診する為に、結局は当人が元々持っていた主義主張に変換されて、理解されるのである。

およそ当人にとって、自らが揺るぎない信念を持っている等と認めることもないであろうが、それは無意識の中に根付いているものなのである。

別の言い方をすれば、価値観という言葉に置き換えることが出来るものだ。

価値観は、千差万別であり、10人の人間がいれば、10通りの基準があるもので、それぞれが心のよりどころとするものは、育ってきた背景や、その人自身の歴史により様々である。

価値観の違う者同士がどれだけ議論を重ねたところで、分かり合えることはない。

僕が「ニンバス2000」という商品を心の底から売りたいと思っていて、それが自分のみならず職場全体の幸せにつながり、最終的には世界に平和をもたらすものだと確信していたとして、それを、ただ無難に労働して、消費して、休みの日にはパチンコしかやることがない人に熱く語ったところで、通じ合えるはずがないのである。

価値観

価値観の違いというものは、円滑なコミュニケーションをとり、強いチームを作る上で大きな壁となって眼前に聳え立つのだ。

いかに熱烈に行動を起こしたところで、行く手を阻むものはいつも、価値観という名の壁である。

この壁は果たして、乗り越えるべきものなのか、壊すべきものなのか。

はたまた、迂回するものなのか、梯子を掛けてよじ登るべきものなのか。

そもそも、回れ右をして別の道を模索するという手段も残されているのではないか。

僕としては、出入りするためのドアが備え付けられていないような壁を作る人間と、無理に分かり合おうとする必要はないと思うのである。

そのような事は根本的に不可能なのであって、時間と労力を無駄にする徒労そのものである。

分かり合える人と、分かり合えればそれでいい。

何も自ら戦いの火種をまき散らす必要はないのである。

分かった気になればいい

ドラクエの生みの親、堀井雄二が言っていた。

「会議でやたらに説明しなくていい。お互いに分かった気になればそれでいいんだよ」と。

これは言葉の意味を深く考えず、字面だけ見てしまえば、何とも投げやりな考え方に思えてしまう。

しかし、先に述べてきたように、人それぞれ価値観は多種多様なものであり、いくら説明したところで、本当に分かり合える瞬間というのは永遠にやってこないものだ。

なぜなら、すべての人は、自分の価値観というフィルターを通してしか、言葉を理解することができないからだ。

すなわち、いくら相手の丁寧な説明を聞こうとも、その言葉が耳に入り脳で理解したときには、結局のところ、自分の言葉に変換され、自分の考え方でしか解釈することができない状態になっているのである。

このような事実がありながら、他の誰かに「分かってもらいたい」と熱意を持って説明することは、大勢が集まる会議の場などでは非常に無駄なものとなる。

会議では、何となく、説明をしている方、説明を聞いている方が「分かった気になっていれば」それでいいのだ。

というよりも、お互いに「分かった気になる」状態にしか、本来なり得ないからである。

限界

「本当の意味で分かり合える」状態など実際には起こり得ないものであり、ファンタジーやSFを語るのと同じことだ。

要するに、フィクションであって、現実の世界ではありえないのだ。

!+1=2になることを前提とした人間が、1+1=オッパイになる世界に生きる人間と、割り勘の額を確認し合ったところで、一向に話がかみ合わないことは想像に難くない。

前提が違う者同士が語り合ったところで、お互いに別々の結論へ辿りつくだけだ。

そして、すべての人間は、それぞれに異なる前提を持つ。

だから何不自由なくお互いに理解し合える関係等というものは、絶対に実現しようのない夢のような関係性と言えるのである。

どれだけ「分かり合えている」ように見えるコンビがいたとしても、それはやはり、「分かり合えている、気がしている」だけなのである。

もちろん、お互いが自分たちの関係性がより良い物だと信じていれば、その思いが強ければ強いほどに、その2人は固い絆で結ばれていると言える。

信頼関係

お互いが相手を信じる気持ち。

それこそが、良好な人間関係を構築していく上で最も重要な要素となる。

そのような2人の間に生まれるものが、信頼関係であり、愛情や友情と言われるものなのである。

人それぞれに、生まれ育った環境が違い、得てきた知識や経験も異なり、区々たる価値観を持っている中で、それでもなお、分かり合えることができる。

それを可能にするのが、お互いを思いやる気持ち、すなわち愛なのだ。

愛があればこそ、相手の言葉に耳を傾けることができ、相手に任せてみようと判断を委ねることができる。

実際には、それでもやはり相手から聞いた言葉を、そっくりそのまま、相手と同じように解釈し、未来の像を抱き、言動を一致させることは不可能だ。

どうしたって、自分だけの価値観というフィルターを通した世界しか見ることはできない。

しかし、そのようにして、お互いに歩み寄る気持ちを持った関係性には、確かな信頼関係が生まれるものだ。

信頼関係のあるチームは、すぐにみんなで、「分かった気になる」ことが出来る。

「分かった気に」なってさえいれば、いくらでも微調整しながら、行動を共にすることができる。

まさしく良好な人間関係がそこにはある。

議論好きは何者か?

信頼関係のない議論に何の意味があるというのか。

分かり合う気のない議論から、一体何が生まれるというのだろうか。

議論とは、何らかのより良いゴールを得る為に行われるものであり、結果が変わらずただ意見をぶつけ合うだけの議論など、そんなものは単なる無意味な儀式でしかない。

意味のある時間を過ごすためには、そもそも議論自体をより良いものにしなければならない。

そして、よりよい議論というのは簡単なことで、お互いがお互いの人間性について信頼し、「大丈夫、僕たちは分かり合えている」と信じることなのである。

そのような愛情があってこそ、議論はゴールを見据えて走り出すのである。

途中で方向を間違えたり、障害物に出くわしたりしても一向にかまわない。

なぜなら、信頼関係があれば、いつでも、いくらでも軌道修正していけるからだ。

度々微調整することが出来るということは、非常に重要である。

微調整

どれだけお互いを信頼し合い、固い絆で結ばれていようとも、思いもよらずはぐれてしまったりするものだ。

そんなときは、もう一度はぐれた地点へ立ち戻り、お互いに声を掛け合えばいい。

信頼関係さえあれば、ただ、それだけで済むのである。

もし、信頼関係のない人間同士が、お互いに間違った道を進んでしまったとしたら、「やっぱりあいつは分かってない」と互いに罵り合うだろう。

罵倒されれば罵倒し返すしかない。悪い感情は悪い感情を生み、負の連鎖を呼び起こすものである。

ひとたび悪循環に陥れば、そこから抜け出し、元いた所まで帰ってくるだけでも大変な労力を伴う。

すべてを解決するのは、愛だ。

愛があるから、信じる心が生まれる。

信じた結果、信頼関係が結ばれ、よりよいゴールを見据えて歩を進めることができるのだ。

議論好きが馬鹿者なのではない。

愛を持たない者が馬鹿なのだ。

愛、愛、愛。

「愛こそがすべて」

より良い議論をする為には、ビートルズを聴こう。

要するに、そういうことである。

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